Md30 温度と野原の式をやさしく解説:Cu 添加でオーステナイト系ステンレスはなぜ安定するのか
SUS304 は「磁石がつかないステンレス」として知られていますが、プレス加工や曲げを受けると局所的に磁石がつくことがあります。この現象の起きやすさを定量的に示す指標が Md30 温度です。成分から Md30 を計算する式として広く用いられているのが 野原の式(Nohara 式)で、Cu(銅)を添加したオーステナイト系ステンレスでは Md30 が大きく低下し、加工しても磁石がつきにくくなります。このページでは、その計算式と Cu 添加の効果をていねいに解説します。
① Md30 温度とは何か
定義:加工誘起マルテンサイト変態の起こりやすさの指標
真ひずみ 0.30(≈ 30% の変形量)を与えたときに、オーステナイトの 50% がマルテンサイトに変態する温度
- Md30 が高い(例:30°C 以上)→ 常温の加工でマルテンサイトが生じやすい
- Md30 が低い(例:−100°C)→ かなり低温でも加工で変態しにくい(オーステナイトが安定)
- Md30 が室温付近の材料は、プレス加工後に磁石がつく可能性が高い
図1:Md30 温度の概念図(真ひずみ 0.30 でのマルテンサイト分率 vs 温度)
② 野原の式(Nohara 式)
成分から Md30 を計算する経験式
1977 年に野原らが提案した以下の経験式は、オーステナイト系ステンレス鋼の組成から Md30(°C)を推算できる式として現在も広く使用されています。
− 9.2 Si
− 8.1 Mn
− 13.7 Cr
− 29(Ni + Cu)
− 18.5 Mo
各元素は mass% で代入します。係数が大きいほど、その元素の添加量が Md30 に与える影響が大きいことを意味します。
各元素の係数と物理的意味
| 元素 | 係数 | Md30 への影響 | 物理的意味 | 代表含有量(SUS304) |
|---|---|---|---|---|
| C(炭素) | −462(C+N) | 強く低下 | オーステナイト安定化元素(最大効果)。格子ひずみを増やしスピン整列を抑制 | ≤ 0.08 % |
| N(窒素) | −462(C+N) | 強く低下 | C と同系統の侵入型元素。高 N 化でオーステナイト安定性が大幅に向上 | ≤ 0.10 % |
| Si(ケイ素) | −9.2 | やや上昇 | フェライト安定化元素。添加量が多いとマルテンサイト変態を促進 | ≤ 1.00 % |
| Mn(マンガン) | −8.1 | やや低下 | オーステナイト安定化。Ni の代替として使われることがある | ≤ 2.00 % |
| Cr(クロム) | −13.7 | 低下 | フェライト安定化元素だが Md30 は下げる。耐食性と安定化の両立 | 18.00〜20.00 % |
| Ni(ニッケル) | −29(Ni+Cu) | 強く低下 | 最も強力なオーステナイト安定化置換型元素。FCC 構造を安定化 | 8.00〜10.50 % |
| Cu(銅) | −29(Ni+Cu) | 強く低下(Ni と同等) | Ni と同じ係数でオーステナイトを安定化。低コスト Ni 代替として注目 | 通常は微量〜なし |
| Mo(モリブデン) | −18.5 | 低下 | オーステナイト安定化と耐食性向上を兼ねる(SUS316 に含む) | —(SUS316: 2〜3%) |
C・N(462)>> Ni・Cu(29)> Mo(18.5)> Cr(13.7)> Si(9.2)≈ Mn(8.1)
C と N は侵入型元素なので置換型元素(Ni, Cu 等)より1桁以上効果が大きいことがわかります。ただし添加できる量は少ないため、実際の Md30 への寄与は Cr・Ni・Cu が主体になります。
③ Cu 添加がオーステナイト安定性に与える効果
なぜ Cu は Ni と同じ係数なのか
野原の式では Cu と Ni が同じ係数(−29)として扱われています。これは Cu が Ni と同様に FCC 構造を持つ置換型元素であり、Fe-Cr-Ni オーステナイトに固溶すると格子内のスタッキングフォルト(積層欠陥)エネルギー(SFE)を低下させる一方で、γ(オーステナイト)相の自由エネルギーを α’(マルテンサイト)相に対して相対的に安定化させるためです。
図2:Cu 添加量と Md30 の関係(野原の式による計算値・SUS304 ベース組成)
Cu 添加 SUS304 系鋼の Md30 計算例
SUS304 をベースに Cu を 0〜4% 添加した場合の Md30 を野原の式で計算します(他成分は一定と仮定)。
| 鋼種・Cu 添加量 | C+N(%) | Cr(%) | Ni(%) | Cu(%) | Mo(%) | Md30(°C)計算値 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| SUS304(Cu なし) | 0.10 | 18.5 | 8.5 | 0 | 0 | ≈ +18 |
| SUS304 + Cu 1% | 0.10 | 18.5 | 8.5 | 1.0 | 0 | ≈ −11 |
| SUS304 + Cu 2% | 0.10 | 18.5 | 8.5 | 2.0 | 0 | ≈ −40 |
| SUS304 + Cu 3% | 0.10 | 18.5 | 8.5 | 3.0 | 0 | ≈ −69 |
| SUS316(Mo 添加) | 0.10 | 17.5 | 12.0 | 0 | 2.5 | ≈ −53 |
| SUS316 + Cu 2% | 0.10 | 17.5 | 12.0 | 2.0 | 2.5 | ≈ −111 |
| SUS304N(高 N: +0.15%N) | 0.22 | 18.5 | 8.5 | 0 | 0 | ≈ −37 |
551
− 462 × (0.06 + 0.04) = −46.2 ← C + N
− 9.2 × 0.5 = −4.6 ← Si
− 8.1 × 1.5 = −12.2 ← Mn
− 13.7 × 18.5 = −253.4 ← Cr
− 29 × (8.5 + 0) = −246.5 ← Ni + Cu
− 18.5 × 0 = 0 ← Mo
= 551 − 562.9 ≈ −12°C(成分仮定により±数十°C の幅あり)
④ Cu 添加の実際の効果と商用鋼種
Cu 添加によるその他の効果
野原の式の通り、Cu 1% の添加で Md30 は約 29°C 低下します。プレス・絞り加工後の非磁性化を維持したい用途に有効です。
Ni は高価でかつ価格変動が大きい元素です。Cu は Ni と同じ係数でオーステナイトを安定化できるため、Ni の一部を Cu で代替することでコスト削減が可能です。
Cu イオンには優れた抗菌・抗ウイルス効果があります。Cu 含有ステンレス(例:SUS304J3、Cu 約 3〜4%)は食品・医療用の抗菌ステンレスとして実用化されています。
Md30 の低下によって加工誘起マルテンサイン変態が抑制されるため、深絞り加工の際の加工硬化が緩やかになり、割れにくくなる効果があります。
Cu の過剰添加(概ね 4% 超)は熱間加工時に Cu リッチ相が析出し、赤熱脆性(hot shortness)を引き起こす可能性があります。Cu は通常 4% 以下に抑えます。
SUS630(17-4PH)のように Cu 3〜5% を添加した析出硬化系ステンレスでは、時効処理で Cu リッチの ε-Cu 相が析出して高強度化されます。この場合はマルテンサイト相が母相です。
Cu 添加系ステンレス鋼の代表グレード
| 鋼種 | Cr(%) | Ni(%) | Cu(%) | Mo(%) | Md30 目安(°C) | 主な特徴・用途 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| SUS304(参考) | 18〜20 | 8〜10.5 | — | — | +10〜+30 | 汎用・基準グレード |
| SUS304J3(抗菌) | 17〜19 | 8〜10 | 3〜4 | — | −70〜−90 | 抗菌ステンレス・食品・医療 |
| SUS316(参考) | 16〜18 | 10〜14 | — | 2〜3 | −30〜−60 | 耐食性向上・海洋・医療 |
| SUS316J1(Cu添加) | 17〜19 | 10〜14 | 1〜2.5 | 1.2〜2.75 | −70〜−100 | 耐塩酸性向上・化学装置 |
| SUS630(17-4PH) | 15.5〜17.5 | 3〜5 | 3〜5 | — | —(析出硬化系) | 高強度・析出硬化・航空宇宙 |
| Nitronic 60(高 N) | 16〜18 | 8〜9 | — | — | −80〜−100 | 高 N・高 Mn でオーステナイト超安定 |
⑤ Md30 と加工後磁性の実用的な判断
Md30 の値と加工後の挙動の目安
| Md30(°C) | 常温加工後の磁性 | 判断 | 代表鋼種 |
|---|---|---|---|
| +50 以上 | 磁石がつく(強い) | 加工誘起マルテンサイトが多量発生 | 低 Ni 系・加工誘起設計材 |
| 0〜+50 | 磁石がつく(中程度) | 深絞り・プレス後に磁性発現リスクあり | SUS304(通常品) |
| −30〜0 | 弱く磁石がつく場合も | 強加工(絞り比大)では変態することがある | SUS316、SUS304 高 Ni 品 |
| −60〜−30 | ほぼつかない | 通常の冷間加工では変態が起きにくい | SUS304J3(Cu添加)、SUS316L |
| −100 以下 | つかない | 極低温や極大加工でも変態が起きにくい | SUS310S、高 N 鋼 |
⑥ 市販 Cu 添加ステンレス鋼:Md30 設計の実例
野原の式が背景にある JIS 規格鋼種たち
現在 JIS G 4303〜4305 に収録されている Cu 添加オーステナイト系ステンレス鋼は、いずれも「加工後の非磁性維持」「冷間加工性の向上」「耐食性の付加」といった目的で Cu 量が設計されており、野原の式の考え方がそのまま反映されています。
図4:SUS304 系の開発系譜と Md30 の変遷(野原の式計算による概算値)
JIS 規格 Cu 添加ステンレスの成分と Md30(野原の式による計算値)
以下の表は JIS G 4303〜4305 に収録された Cu 添加グレードについて、規格成分の中央値を用いて野原の式で Md30 を算出したものです。
| JIS 鋼種 | C+N(%) | Cr(%) | Ni(%) | Cu(%) | Mo(%) | 野原式 Md30 計算(°C) |
Cu 添加の主目的 | 代表用途 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| SUS304(参考) | ≤0.08+≤0.10 | 18.0〜20.0 | 8.0〜10.5 | — | — | +10〜+30 | —(基準) | 汎用板・配管 |
| SUS304Cu | ≤0.08 | 18.0〜20.0 | 8.0〜10.5 | 0.70〜1.30 | — | −10〜−10 | 深絞り性向上・加工硬化抑制 | 深絞り板材・家庭用器具・建材 (JIS G 4305 規定、板材専用) |
| SUSXM7 | ≤0.08+≤0.10 | 17.0〜19.0 | 8.5〜10.5 | 3.00〜4.00 | — | −50〜−80 | 冷間圧造性・非磁性維持 | ボルト・ナット・小ネジ・タッピングねじ(冷間圧造専用) |
| SUS304J3 | ≤0.08 | 17.0〜19.0 | 8.0〜10.0 | 3.00〜4.00 | — | −60〜−85 | 抗菌性付与 + 非磁性維持 | 食品機器・医療器具・抗菌建材 (JIS G 4303 棒材規定) |
| SUS316J1 | ≤0.08 | 17.0〜19.0 | 10.0〜14.0 | 1.00〜2.50 | 1.20〜2.75 | −90〜−120 | 耐塩酸性・耐食性向上 + オーステナイト安定化 | 化学装置・パルプ・紙製造設備 |
| SUS316J1L | ≤0.03 | 17.0〜19.0 | 10.0〜14.0 | 1.00〜2.50 | 1.20〜2.75 | −100〜−130 | C 極低減で耐粒界腐食性 + Cu で安定化 | 化学プラント溶接構造物 |
| SUS630(17-4PH) | ≤0.07 | 15.5〜17.5 | 3.0〜5.0 | 3.00〜5.00 | — | —(析出硬化系・参考外) | Cu は時効硬化(ε-Cu 析出)が主目的 | 航空宇宙・精密機器・高強度ファスナー |
SUSXM7 の「XM」は extra materials の略で、開発中の通称「XM7」として市場に広く流通し、1977 年に JIS 認定された際にそのまま「SUSXM7」が採用されたという経緯があります。現在のボルト・ナット市場では、SUS304 はヘッダー材としてはほとんど使用されなくなり、SUSXM7 が冷間圧造用ステンレスの事実上の標準グレードとなっています。
各グレードの Cu 量と Md30 の位置づけ(設計意図の読み取り)
図5:市販 Cu 添加ステンレスの Md30 計算値比較(野原の式・成分中央値使用)
SUS304 系列の冷間加工性の系譜(透磁率への影響)
SUS304 は冷間加工硬化性が著しく、この性質を改善するため Ni を多く添加した鋼種が SUS305 であり、さらに冷間加工性と工具寿命の延長を狙って Cu を添加した鋼種が SUSXM7です。SUS304 に比べ SUS305 や SUSXM7 が磁性を帯びることが少ないことも確認されており、特に磁性を嫌う用途には SUS305 や SUSXM7 が選択されます。
| 鋼種 | 冷間圧造性 | 加工後の磁性発現 | 強度(対 SUS304) | 価格(概算) |
|---|---|---|---|---|
| SUS304 | やや悪い(加工硬化大) | 出やすい | 基準 | 基準 |
| SUS305 | 良好(Ni 増量で安定) | 出にくい | やや低い | +5〜15% |
| SUSXM7 | 最良(圧造専用設計) | 出にくい | やや低い | +10〜20% |
| SUS304Cu | 良好(深絞り向け) | SUS304 より出にくい | 同等 | +5〜10% |
| SUS316J1 | 普通(Mo で若干硬い) | 非常に出にくい | 同等 | +25〜40% |
⑦ 参考文献・出典について
K. Nohara, Y. Ono, N. Ohashi: “Composition and Grain-size Dependences of Strain-induced Martensitic Transformation in Metastable Austenitic Stainless Steels”, Journal of the Iron and Steel Institute of Japan(鉄と鋼), Vol. 63, No. 5, pp. 772–782, 1977.
なお、Md30 の概念自体は R.E. Angel(1954)が定義し、その後多くの研究者が組成依存式を提案しています。野原らの式は Fe-Cr-Ni 系への適用性が高く、現在も JIS や各製鉄メーカーの設計指針で参照されています。
図3:野原の式における各元素の Md30 寄与(SUS304 ベース組成の寄与量比較)
まとめ:Md30 と野原の式で押さえておきたいこと
- Md30 は「真ひずみ 0.30 で 50% がマルテンサイト変態する温度」で、オーステナイト安定性の指標
- 野原の式:Md30 = 551 − 462(C+N) − 9.2Si − 8.1Mn − 13.7Cr − 29(Ni+Cu) − 18.5Mo
- Cu は Ni と全く同じ係数(−29)でオーステナイトを安定化する置換型元素
- SUS304 に Cu を 1% 添加するごとに Md30 は約 29°C 低下し、加工後の磁性発現を抑制できる
- SUSXM7(Cu 3〜4%)は冷間圧造・ネジ用途に特化した代表的 Cu 添加グレードで、Md30 ≈ −50〜−80°C に設計されており、現在のボルト・ナット市場の事実上の標準材
- SUS304Cu(Cu ≈ 1%)は板材の深絞り性向上を目的とした穏やかな Cu 添加グレード(JIS G 4305)
- SUS316J1(Cu + Mo)は耐塩酸性と非磁性維持を両立する化学装置向けグレードで Md30 ≈ −90〜−120°C
- Cu 添加は Ni コスト低減・抗菌性付与・冷間加工性向上という複数の効果を兼ねる
- Cu の過剰添加(4% 超)は熱間加工時の赤熱脆性リスクがあるため含有量管理が必要
- 設計目標:非磁性を維持したい → Md30 を −60°C 以下に設計するのが実用的な目安
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