温度が変わっても寸法がほとんど変化しない——そんな金属が存在します。インバー合金(Fe-36%Ni)は熱膨張係数が一般鋼の約10分の1以下という異常な特性を持ち、精密測定機器・半導体露光装置・光学系フレームなど「温度変化で狂ってはいけない」用途の要の材料です。しかし高コストと低強度という制約があるため、本当に必要な場面を見極めることが選定の出発点です。
インバー合金の発見——ノーベル賞が授与された「異常な金属」
インバー(Invar)は1896年にスイスの物理学者シャルル・エドゥアール・ギヨーム(Charles Édouard Guillaume)が発見した Fe-Ni系合金です。「不変(invariable)」を語源とするその名のとおり、室温付近での熱膨張係数が極めて小さいことが特徴です。この発見によりギヨームは1920年にノーベル物理学賞を受賞しています——金属材料の発見でノーベル賞が授与された稀な例です。
標準的なインバー合金の組成はFe-36%Ni。このNi含有量が低膨張の鍵で、Niが32〜36%の範囲から外れると特性が急激に低下します。
熱膨張係数の比較——数字でわかる「異常さ」
| 材料 | 熱膨張係数 α(×10⁻⁶/K) | 10℃変化での100mm当たり寸法変化 |
|---|---|---|
| インバー合金(Fe-36Ni) | 約1.2 | 約0.12μm(ほぼ無視できる) |
| スーパーインバー(Fe-31Ni-5Co) | 約0.5〜0.7 | 約0.05〜0.07μm |
| 一般鉄鋼(SS400・S45C等) | 約11〜12 | 約11〜12μm |
| SUS304(オーステナイト系) | 約16〜17 | 約16〜17μm |
| アルミニウム合金(A6061等) | 約23 | 約23μm |
| チタン合金(Ti-6Al-4V) | 約8.6 | 約8.6μm |
| パイレックスガラス | 約3.3 | 約3.3μm |
精密機器で0.1μm(100nm)レベルの位置決めを行う場合、10℃の温度変化で100mmのSUS304フレームは1.6〜1.7μmも伸縮します。インバーに変えると0.12μmに抑えられ、温度補正なしでも桁違いの安定性が得られます。
なぜ膨張しないのか——磁歪と格子膨張の相殺
通常の金属は温度が上がると原子間距離が広がり(格子膨張)、体積が増えます。インバー合金でこれが起きにくい理由は「自発磁歪(spontaneous magnetostriction)」という磁気的な現象が格子膨張を打ち消すためです。
インバー合金の弱点——使う前に知っておくべきこと
| 弱点 | 具体的な内容 | 対策・代替の方向性 |
|---|---|---|
| 高コスト | Ni含有量が36%と高く、一般鋼の10〜20倍程度のコストになる。加工費も高い。 | 本当に低膨張が必要な部位だけに使用。他部位はより安価な材料と組み合わせる設計。 |
| 低強度 | 引張強さ約490MPa、耐力約245MPa程度(焼鈍材)。S45Cの半分以下。 | 強度が必要な場合は冷間加工で硬化(最大引張強さ約900MPa)させるか、スーパーインバーを検討。 |
| 切削性の悪さ | Ni系合金特有の加工硬化・工具摩耗が起きやすい。切削コストが増大する。 | 刃先を鋭利に保ち、切り込みを十分深く取る。コーティング工具の使用。 |
| Niの資源リスク | ロシア・カナダ等に産地が偏るNiは供給リスクと価格変動リスクを持つ。 | 長期調達契約・在庫確保。代替材(セラミックス・CFRPの低膨張品)の検討。 |
| 磁性(強磁性) | 常温では強磁性体のため、磁場の影響を受ける環境では問題になる。 | 非磁性が必要な場合は低膨張ガラス・セラミックス(ゼロデュア)等を検討。 |
関連合金:インバーファミリーの使い分け
Co添加でインバーより更に低膨張係数(α≈0.5×10⁻⁶/K)を実現。キュリー温度もやや上昇。半導体露光装置のステージや高精度光学ベンチに使われる最上位グレード。コストはインバーより更に高い。
ホウケイ酸ガラス(α≈4.6×10⁻⁶/K)やアルミナセラミックスと熱膨張係数を合わせた電子管封着用合金。真空管・半導体パッケージ・リード線のガラス貫通端子に使われる。低膨張より「特定材料との整合」が目的。
シリコン半導体のリードフレームに使われるNi-Fe合金。Si(α≈2.6×10⁻⁶/K)との熱膨張整合が目的。ICパッケージの信頼性に直結する材料。
JIS規格と形状
| 規格 | 内容 |
|---|---|
| JIS C 2531 | 低熱膨張合金(インバー系)板・帯の規格。Fe-36Ni組成、熱膨張係数の上限値を規定。 |
| JIS C 2532 | 低熱膨張合金棒・線の規格。機械加工用の丸棒・角棒が対象。 |
| ASTM F1684 | インバー合金の米国規格。精密用途ではこちらの規格で調達されることも多い。 |
用途カード
測定ベースの寸法変化が測定誤差に直結する。室温±5℃の空調管理が難しい環境でも精度を保つためインバーが選ばれる。定盤代わりに使う「インバーベース」が精密測定の基準として機能する。
ナノメートル精度でウェハを位置決めするステージフレームにスーパーインバーが使われる。装置内温度が0.01℃単位で管理されていても、フレーム材料の低膨張性が精度の下支えになる。
レンズ・ミラー間の光軸距離が温度で変わると焦点がずれる。天体望遠鏡の主鏡支持トラス、レーザー発振器の共振器フレームにインバーが採用される。
バイメタルと同原理で、インバー棒と一般鋼を組み合わせた温度感応式換気窓が農業用温室で使われる。電源不要で温度に応じて自動開閉する単純かつ信頼性の高い機構。
コバールとしてガラスと熱膨張係数を合わせ、気密封止部品として使用。医療機器の磁気シールド管・高周波電子管のリードピンに使われる。
トラブル事例:精密治具の温度補正がうまくいかなかった
- 使用温度範囲がインバーの低膨張域(-100℃〜+200℃程度)内であることを確認した
- 組み合わせる他部材の熱膨張係数との差を計算し、許容寸法変化量以内であることを確認した
- 引張強さ490MPa・耐力245MPa(焼鈍材)で強度が成立するか確認した
- 高強度が必要な場合は冷間加工品またはスーパーインバーを検討した
- 磁場環境での使用がないか確認した(インバーは強磁性体)
- コスト面で「低膨張が必要な部位のみ」に適用範囲を絞ったか検討した
- 発注時にJIS C 2531またはC 2532を指定し、熱膨張係数の上限値を明記した
- 代替材(低膨張セラミックス・CFRP積層板)のコスト・加工性と比較検討した
まとめ
- インバー合金(Fe-36Ni)は熱膨張係数α≈1.2×10⁻⁶/Kで、一般鋼の約10分の1という異常な低膨張を示す
- 低膨張の原因は自発磁歪と格子膨張の相殺。この特性は室温〜約200℃の磁性状態でのみ有効
- 弱点は高コスト・低強度(490MPa程度)・切削性の悪さ・Ni資源リスク
- スーパーインバー(Fe-31Ni-5Co)はさらに低膨張(α≈0.5×10⁻⁶/K)で、半導体露光装置等の最高精度用途に使われる
- 異材と組み合わせる際は熱膨張差×温度変化×寸法を必ず事前計算する

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