Md30 温度と野原の式をやさしく解説:Cu 添加でオーステナイト系ステンレスはなぜ安定するのか

Md30 温度と野原の式をやさしく解説:Cu 添加でオーステナイト系ステンレスはなぜ安定するのか

SUS304 は「磁石がつかないステンレス」として知られていますが、プレス加工や曲げを受けると局所的に磁石がつくことがあります。この現象の起きやすさを定量的に示す指標が Md30 温度です。成分から Md30 を計算する式として広く用いられているのが 野原の式(Nohara 式)で、Cu(銅)を添加したオーステナイト系ステンレスでは Md30 が大きく低下し、加工しても磁石がつきにくくなります。このページでは、その計算式と Cu 添加の効果をていねいに解説します。

① Md30 温度とは何か

定義:加工誘起マルテンサイト変態の起こりやすさの指標

📚 Md30 の定義(Angel, 1954)

真ひずみ 0.30(≈ 30% の変形量)を与えたときに、オーステナイトの 50% がマルテンサイトに変態する温度

  • Md30 が高い(例:30°C 以上)→ 常温の加工でマルテンサイトが生じやすい
  • Md30 が低い(例:−100°C)→ かなり低温でも加工で変態しにくい(オーステナイトが安定)
  • Md30 が室温付近の材料は、プレス加工後に磁石がつく可能性が高い
温度 マルテンサイト分率 100% 0% 50% SUS304(Md30 ≈ +20°C) SUS316(Md30 ≈ −30°C) SUS304Cu(Md30 ≈ −60°C) Md30 (SUS304) 室温 (20°C) −100°C −50°C 0°C 50°C 100°C

図1:Md30 温度の概念図(真ひずみ 0.30 でのマルテンサイト分率 vs 温度)

② 野原の式(Nohara 式)

成分から Md30 を計算する経験式

1977 年に野原らが提案した以下の経験式は、オーステナイト系ステンレス鋼の組成から Md30(°C)を推算できる式として現在も広く使用されています。

Md30(°C)= 551 − 462C + N
       − 9.2 Si
       − 8.1 Mn
       − 13.7 Cr
       − 29Ni + Cu
       − 18.5 Mo

各元素は mass% で代入します。係数が大きいほど、その元素の添加量が Md30 に与える影響が大きいことを意味します。

⚠ 野原の式の適用範囲:この式は Fe-Cr-Ni 系オーステナイトステンレスを対象とした経験式です。組成が大きく外れる場合(超高 Mn 鋼・高 N 鋼など)は誤差が大きくなる場合があります。

各元素の係数と物理的意味

元素 係数 Md30 への影響 物理的意味 代表含有量(SUS304)
C(炭素) −462(C+N) 強く低下 オーステナイト安定化元素(最大効果)。格子ひずみを増やしスピン整列を抑制 ≤ 0.08 %
N(窒素) −462(C+N) 強く低下 C と同系統の侵入型元素。高 N 化でオーステナイト安定性が大幅に向上 ≤ 0.10 %
Si(ケイ素) −9.2 やや上昇 フェライト安定化元素。添加量が多いとマルテンサイト変態を促進 ≤ 1.00 %
Mn(マンガン) −8.1 やや低下 オーステナイト安定化。Ni の代替として使われることがある ≤ 2.00 %
Cr(クロム) −13.7 低下 フェライト安定化元素だが Md30 は下げる。耐食性と安定化の両立 18.00〜20.00 %
Ni(ニッケル) −29(Ni+Cu) 強く低下 最も強力なオーステナイト安定化置換型元素。FCC 構造を安定化 8.00〜10.50 %
Cu(銅) −29(Ni+Cu) 強く低下(Ni と同等) Ni と同じ係数でオーステナイトを安定化。低コスト Ni 代替として注目 通常は微量〜なし
Mo(モリブデン) −18.5 低下 オーステナイト安定化と耐食性向上を兼ねる(SUS316 に含む) —(SUS316: 2〜3%)
💡 係数の大きさ(絶対値)で比較すると

C・N(462)>> Ni・Cu(29)> Mo(18.5)> Cr(13.7)> Si(9.2)≈ Mn(8.1)

C と N は侵入型元素なので置換型元素(Ni, Cu 等)より1桁以上効果が大きいことがわかります。ただし添加できる量は少ないため、実際の Md30 への寄与は Cr・Ni・Cu が主体になります。

③ Cu 添加がオーステナイト安定性に与える効果

なぜ Cu は Ni と同じ係数なのか

野原の式では Cu と Ni が同じ係数(−29)として扱われています。これは Cu が Ni と同様に FCC 構造を持つ置換型元素であり、Fe-Cr-Ni オーステナイトに固溶すると格子内のスタッキングフォルト(積層欠陥)エネルギー(SFE)を低下させる一方で、γ(オーステナイト)相の自由エネルギーを α’(マルテンサイト)相に対して相対的に安定化させるためです。

図2:Cu 添加量と Md30 の関係(野原の式による計算値・SUS304 ベース組成)

Cu 添加 SUS304 系鋼の Md30 計算例

SUS304 をベースに Cu を 0〜4% 添加した場合の Md30 を野原の式で計算します(他成分は一定と仮定)。

鋼種・Cu 添加量 C+N(%) Cr(%) Ni(%) Cu(%) Mo(%) Md30(°C)計算値
SUS304(Cu なし) 0.1018.58.500 ≈ +18
SUS304 + Cu 1% 0.1018.58.51.00 ≈ −11
SUS304 + Cu 2% 0.1018.58.52.00 ≈ −40
SUS304 + Cu 3% 0.1018.58.53.00 ≈ −69
SUS316(Mo 添加) 0.1017.512.002.5 ≈ −53
SUS316 + Cu 2% 0.1017.512.02.02.5 ≈ −111
SUS304N(高 N: +0.15%N) 0.2218.58.500 ≈ −37
🧮 Md30 計算の手順(SUS304 ベース)

551
− 462 × (0.06 + 0.04) = −46.2 ← C + N
− 9.2 × 0.5       = −4.6  ← Si
− 8.1 × 1.5       = −12.2 ← Mn
− 13.7 × 18.5      = −253.4 ← Cr
− 29 × (8.5 + 0)    = −246.5 ← Ni + Cu
− 18.5 × 0       = 0   ← Mo
= 551 − 562.9 ≈ −12°C(成分仮定により±数十°C の幅あり)

④ Cu 添加の実際の効果と商用鋼種

Cu 添加によるその他の効果

🧲 オーステナイト安定化

野原の式の通り、Cu 1% の添加で Md30 は約 29°C 低下します。プレス・絞り加工後の非磁性化を維持したい用途に有効です。

💰 Ni コスト低減

Ni は高価でかつ価格変動が大きい元素です。Cu は Ni と同じ係数でオーステナイトを安定化できるため、Ni の一部を Cu で代替することでコスト削減が可能です。

🧪 抗菌性の付与

Cu イオンには優れた抗菌・抗ウイルス効果があります。Cu 含有ステンレス(例:SUS304J3、Cu 約 3〜4%)は食品・医療用の抗菌ステンレスとして実用化されています。

🔨 冷間加工性の向上

Md30 の低下によって加工誘起マルテンサイン変態が抑制されるため、深絞り加工の際の加工硬化が緩やかになり、割れにくくなる効果があります。

⚠ 熱間加工性への注意

Cu の過剰添加(概ね 4% 超)は熱間加工時に Cu リッチ相が析出し、赤熱脆性(hot shortness)を引き起こす可能性があります。Cu は通常 4% 以下に抑えます。

📌 析出硬化効果

SUS630(17-4PH)のように Cu 3〜5% を添加した析出硬化系ステンレスでは、時効処理で Cu リッチの ε-Cu 相が析出して高強度化されます。この場合はマルテンサイト相が母相です。

Cu 添加系ステンレス鋼の代表グレード

鋼種 Cr(%) Ni(%) Cu(%) Mo(%) Md30 目安(°C) 主な特徴・用途
SUS304(参考) 18〜208〜10.5 +10〜+30 汎用・基準グレード
SUS304J3(抗菌) 17〜198〜103〜4 −70〜−90 抗菌ステンレス・食品・医療
SUS316(参考) 16〜1810〜142〜3 −30〜−60 耐食性向上・海洋・医療
SUS316J1(Cu添加) 17〜1910〜141〜2.51.2〜2.75 −70〜−100 耐塩酸性向上・化学装置
SUS630(17-4PH) 15.5〜17.53〜53〜5 —(析出硬化系) 高強度・析出硬化・航空宇宙
Nitronic 60(高 N) 16〜188〜9 −80〜−100 高 N・高 Mn でオーステナイト超安定

⑤ Md30 と加工後磁性の実用的な判断

Md30 の値と加工後の挙動の目安

Md30(°C) 常温加工後の磁性 判断 代表鋼種
+50 以上 磁石がつく(強い) 加工誘起マルテンサイトが多量発生 低 Ni 系・加工誘起設計材
0〜+50 磁石がつく(中程度) 深絞り・プレス後に磁性発現リスクあり SUS304(通常品)
−30〜0 弱く磁石がつく場合も 強加工(絞り比大)では変態することがある SUS316、SUS304 高 Ni 品
−60〜−30 ほぼつかない 通常の冷間加工では変態が起きにくい SUS304J3(Cu添加)、SUS316L
−100 以下 つかない 極低温や極大加工でも変態が起きにくい SUS310S、高 N 鋼

⑥ 市販 Cu 添加ステンレス鋼:Md30 設計の実例

野原の式が背景にある JIS 規格鋼種たち

現在 JIS G 4303〜4305 に収録されている Cu 添加オーステナイト系ステンレス鋼は、いずれも「加工後の非磁性維持」「冷間加工性の向上」「耐食性の付加」といった目的で Cu 量が設計されており、野原の式の考え方がそのまま反映されています。

SUS304 Cr18 / Ni8 Md30 ≈ +15〜+30°C 基準・汎用 Ni 増量 SUS305 Cr18 / Ni10.5〜13 Md30 ≈ −40〜−60°C 加工硬化↓・深絞り向け Cu 3% 添加 SUSXM7 Cr18 / Ni9 / Cu3〜4 Md30 ≈ −50〜−80°C 冷間圧造・ネジ専用 JIS 1977年制定 SUS304→SUS305→SUSXM7 と段階的に冷間圧造性が改善されている(ステンレス協会資料より)

図4:SUS304 系の開発系譜と Md30 の変遷(野原の式計算による概算値)

JIS 規格 Cu 添加ステンレスの成分と Md30(野原の式による計算値)

以下の表は JIS G 4303〜4305 に収録された Cu 添加グレードについて、規格成分の中央値を用いて野原の式で Md30 を算出したものです。

JIS 鋼種 C+N(%) Cr(%) Ni(%) Cu(%) Mo(%) 野原式
Md30 計算(°C)
Cu 添加の主目的 代表用途
SUS304(参考) ≤0.08+≤0.1018.0〜20.08.0〜10.5 +10〜+30 —(基準) 汎用板・配管
SUS304Cu ≤0.0818.0〜20.08.0〜10.50.70〜1.30 −10〜−10 深絞り性向上・加工硬化抑制 深絞り板材・家庭用器具・建材
(JIS G 4305 規定、板材専用)
SUSXM7 ≤0.08+≤0.1017.0〜19.08.5〜10.53.00〜4.00 −50〜−80 冷間圧造性・非磁性維持 ボルト・ナット・小ネジ・タッピングねじ(冷間圧造専用)
SUS304J3 ≤0.0817.0〜19.08.0〜10.03.00〜4.00 −60〜−85 抗菌性付与 + 非磁性維持 食品機器・医療器具・抗菌建材
(JIS G 4303 棒材規定)
SUS316J1 ≤0.0817.0〜19.010.0〜14.01.00〜2.501.20〜2.75 −90〜−120 耐塩酸性・耐食性向上 + オーステナイト安定化 化学装置・パルプ・紙製造設備
SUS316J1L ≤0.0317.0〜19.010.0〜14.01.00〜2.501.20〜2.75 −100〜−130 C 極低減で耐粒界腐食性 + Cu で安定化 化学プラント溶接構造物
SUS630(17-4PH) ≤0.0715.5〜17.53.0〜5.03.00〜5.00 —(析出硬化系・参考外) Cu は時効硬化(ε-Cu 析出)が主目的 航空宇宙・精密機器・高強度ファスナー
📌 SUSXM7 の名称について

SUSXM7 の「XM」は extra materials の略で、開発中の通称「XM7」として市場に広く流通し、1977 年に JIS 認定された際にそのまま「SUSXM7」が採用されたという経緯があります。現在のボルト・ナット市場では、SUS304 はヘッダー材としてはほとんど使用されなくなり、SUSXM7 が冷間圧造用ステンレスの事実上の標準グレードとなっています。

各グレードの Cu 量と Md30 の位置づけ(設計意図の読み取り)

図5:市販 Cu 添加ステンレスの Md30 計算値比較(野原の式・成分中央値使用)

⚠ 設計意図の読み方:SUS304Cu(Cu ≈ 1%)は Md30 をわずかに下げて深絞り板材に対応、SUSXM7(Cu ≈ 3.5%)は圧造時の磁性発現と工具寿命の両方を解決、SUS316J1(Cu + Mo)はさらに Md30 を下げつつ耐食性も確保——と、Cu 添加量が目的に応じて段階的に設計されていることがわかります。野原の式の係数がそのまま設計の根拠になっています。

SUS304 系列の冷間加工性の系譜(透磁率への影響)

SUS304 は冷間加工硬化性が著しく、この性質を改善するため Ni を多く添加した鋼種が SUS305 であり、さらに冷間加工性と工具寿命の延長を狙って Cu を添加した鋼種が SUSXM7です。SUS304 に比べ SUS305 や SUSXM7 が磁性を帯びることが少ないことも確認されており、特に磁性を嫌う用途には SUS305 や SUSXM7 が選択されます。

鋼種 冷間圧造性 加工後の磁性発現 強度(対 SUS304) 価格(概算)
SUS304 やや悪い(加工硬化大) 出やすい 基準 基準
SUS305 良好(Ni 増量で安定) 出にくい やや低い +5〜15%
SUSXM7 最良(圧造専用設計) 出にくい やや低い +10〜20%
SUS304Cu 良好(深絞り向け) SUS304 より出にくい 同等 +5〜10%
SUS316J1 普通(Mo で若干硬い) 非常に出にくい 同等 +25〜40%

⑦ 参考文献・出典について

📖 野原の式の出典

K. Nohara, Y. Ono, N. Ohashi: “Composition and Grain-size Dependences of Strain-induced Martensitic Transformation in Metastable Austenitic Stainless Steels”, Journal of the Iron and Steel Institute of Japan(鉄と鋼), Vol. 63, No. 5, pp. 772–782, 1977.

なお、Md30 の概念自体は R.E. Angel(1954)が定義し、その後多くの研究者が組成依存式を提案しています。野原らの式は Fe-Cr-Ni 系への適用性が高く、現在も JIS や各製鉄メーカーの設計指針で参照されています。

図3:野原の式における各元素の Md30 寄与(SUS304 ベース組成の寄与量比較)

まとめ:Md30 と野原の式で押さえておきたいこと

  • Md30 は「真ひずみ 0.30 で 50% がマルテンサイト変態する温度」で、オーステナイト安定性の指標
  • 野原の式:Md30 = 551 − 462(C+N) − 9.2Si − 8.1Mn − 13.7Cr − 29(Ni+Cu) − 18.5Mo
  • Cu は Ni と全く同じ係数(−29)でオーステナイトを安定化する置換型元素
  • SUS304 に Cu を 1% 添加するごとに Md30 は約 29°C 低下し、加工後の磁性発現を抑制できる
  • SUSXM7(Cu 3〜4%)は冷間圧造・ネジ用途に特化した代表的 Cu 添加グレードで、Md30 ≈ −50〜−80°C に設計されており、現在のボルト・ナット市場の事実上の標準材
  • SUS304Cu(Cu ≈ 1%)は板材の深絞り性向上を目的とした穏やかな Cu 添加グレード(JIS G 4305)
  • SUS316J1(Cu + Mo)は耐塩酸性と非磁性維持を両立する化学装置向けグレードで Md30 ≈ −90〜−120°C
  • Cu 添加は Ni コスト低減・抗菌性付与・冷間加工性向上という複数の効果を兼ねる
  • Cu の過剰添加(4% 超)は熱間加工時の赤熱脆性リスクがあるため含有量管理が必要
  • 設計目標:非磁性を維持したい → Md30 を −60°C 以下に設計するのが実用的な目安

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